ぐち

刻々と時間だけは過ぎる


それを実感させてくれるのはいつだって温度だ


ゴミ出しついでに思い返すことになるというなんとも情緒に欠ける事ではあるが、印象的という意味では正しかったのだろう


吐く息と、自分だけの時間が止まったような空間が雄弁に語ってくれる



当たり前だった歩道橋での会話が橙色の外灯がなんだったかを教えてくれる



自分の役割とはなんだったのか


何がしたかったのか


その時には語れたのに、今となっては語ろうと思えず、心のうちに溜め込み、吐き気をもよおすほど心の臓に詰め込まれていく


今の気持ちは、当時のそれとはかけ離れて、もう戻ることはないのかもしれないと危機感に苛まれる。


演劇がしたかったのではなく、芝居がしたかっただけだから。


やりたいことだけをやるわけにはいかないと現実を突きつけられるような現状が


やりたいことの苦しみを味わい、それでも心地いいとさえ思えた昔が


在り方を問う様で、正しさの前に疑問や怒りさえ湧かせてくる。



僕は、役割になった



僕は人ではなくなった



興味や関心を抱いてもらうことは叶わず、可能なことやするべきことに責任を追及され、機械の様に、システムの様に荷なうことを余儀なくされる存在になった



僕は人間じゃない



だが、機械の様にメンテナンスを行ってもらうこともない



僕は丁寧に慎重に団体のために心血を注ぎ


僕自身を殺していく



夢からは覚めなくちゃいけない



時間は失わなくちゃいけない



他の人より弱い僕が、立て直しのために充てた時間は、強い他者に奪われ、強いられて、貪られていく。



僕を知らない君らに、君らを知る僕が加担しなければならない



僕を知らない君らが、互いに知ろうとしていたあの時は過去なのだから



君らの知る僕を僕に当てはめて、馬車馬の如く使うのだろう。



吐く息も変わったんだよ



熱かった息から、溢れそうな不満からこぼれるだけの息に


嘲笑うような表情が脳裏から離れない


僕は、何の為に生きていかなきゃいけないんだろう。


揺らぎ


すごく久しぶり


ここで書いたのも115日前だそうで、俺はまた書きたいと思うものが浮かんだ



変わってしまったんだ


そう


変わっちまったんだ



昔の俺はもういなくて、今の俺はとても惨めと感じた



なぜか


昔の座組で書いていたブログを読んだから


大学2年生から3年生にかけて、できないなりに精一杯足掻いて腹の底を書きなぐったような文章だった


気をてらっていた


俺は僕だった


脈絡がなかった


ネタのねじ込み方が強引だった


不安を跳ね除けようとしていた


苦労を糧にしていた


夢を見ていた


まっすぐにあろうとしていた


彼はかっこよかった


今の僕は彼に負けている


悔しい


悲しい


自殺ばかり考える日々には眩しい



こんな男もいたのだったな



たくさんのことを思い出した


たくさんのことを忘れていた


期待していた友人が地獄に落ちていた


友人の活躍を心から祝ったはずなのに、友人を見捨てた



こんな、あんまりにもな後悔ってあるだろうか


とても気分の悪いタイムカプセルだ


俺は僕になりたい


白帯の気持ちで


馬鹿で、クソ真面目で、考えることもできなくて、理論もなくて、面白くもない餓鬼の言葉が


元々、自分のものだっただなんて



正直、目を疑った



僕は役者になりたいと願っていた


俺は役者とはと語るようになっていた


大切な何かは役割なんじゃないかと解を出していた



だめだ、全然ダメだ



後退している


衰退している


消え失せたくない


活躍したい


仕事って楽しいんだって胸を張って言いたい


こんな俺でも、あんな僕だったけど


胸にあるのは声優だって、笑って言いたい


今日も寝れない日々を過ごしています。



これもう自律神経とかぶっ飛んでるでしょ?


まだ失うとかなら生み出すか新しくするかってできるけれど、飛んでいったら探さなくちゃいけない気がしてしまってさぁ大変



ストレスに弱いこの身体よ


ね、つーことで僕は1ヶ月くらいのガチニート期間を経て、ようやくバイトにありつきました。


ありつきました


……



はい、腰が死にましたねー

もう動かないです

骨盤の中身をギュッとされてるような、今までに味わったことのない、鋭くもなく、鈍くもないマイルドな感触の痛み


1人でその部位に湿布を貼ろうとしてる時の情けなさ足るや……


1人部屋で半ケツ状態


腰をやらかすだけで惨めさを味わえるなんて、食べてみるものですね


本当にイナゴを食べものだと定義したやつは許さない




ニートから腰ダメにするのにかかった期間は2日間でした



僕、だらしなすぎない?

え?そんなちょろい?

マジで心折れたよ?

電話先では「挫けてないです!」って職場に言ったけどマジ凹みよ?

「明日には治します!」って言ったけど無理っぽいよ?


あまりにも通常業務に向いてないからだと、勤労に適さない心のおかげで社会不適合者以外の進路が見当たらないんですけど


だって普通にしてれば健常者なんですから、絶対にある程度のレベル求められるわけですよね?

身体がついていかない以上不可能ですし

こりゃもう遥か高みに登らざるを得ないな!



抜け出せない悩み

 

いろいろ考えた先に死に繋がりました。

あくまで自分用で吐き出したいだけなので読まない方がいいと思います。

 

 

 

短絡的といわれるかもしれませんが、構いません。

僕はそんなに優秀じゃないです。あなたはきっと良い教育を受けて崇高な思想を持ち、良い環境に生きているんだと思うので本当に読まないでください。

 

 

 

堕落した僕の考えです。働きたくありません。

小学生のころ社会かなんかで学びましたが、勤労の義務があるみたいですね、日本には。

 

嫌だよ。

人と話すときは緊張するし資格があるわけでもなく、得意な音楽やら芸術技能があるわけでもない。

体格に恵まれてもいない。頭がいいわけでもない。

 

求めてもらえるような能力なんてないです。

ブスです。

 

でも死にたくなかった。

痛いのは怖いし、死んだら時間という感覚がどうなってしまうのかが恐ろしくてたまらない。

頭の思考は、体の感覚はどうなってしまうのか。

逃げたいんです。本気で。

 

高校の時に書いた脚本があります。

今読むとあまりの駄作っぷりに目を覆いたくなりますが、その中で一つテーマを置いていたわけです。

死恐怖症について。

その作中で死んだら天国に行けると定め、落としどころにしました。

死んだ先がわからないし、経験者もいない。

ならば、手塚治虫ブッダで言っていたように「無」の可能性もあれば「天国」に行ける可能性も「魂」として現世にとどまる可能性も同様にあると思います。

てことは、少なからず「無」の可能性を排せないわけですよね?

 

知らないという恐怖が僕を襲います。

 

怖いので、死なないように働くしかありません。

 

僕は就活で一つ内定を頂きました。

しかし、僕にはその楽しさを、働く姿を想像できませんでした。

辞退しました。

「誰でも楽しいと思う仕事ばかりをしているわけがない」

漫画やtwitterでよく言われている僕にはとても厳しい言葉です。

「じゃあ僕も楽しくもない仕事をしよう!」なんて思えるわけないだろ。

 

だからせめて、自分が今までで最もやりたいと考えた仕事をしてみよう。

と、いうことで、声優養成所に通い始めました。

しかし、お金がない。

お金がなくちゃ仕事にも就けないし、生きてもいけない。

少なくとも僕には。

 

バイトをしなくちゃいけないんですよ。

「じゃあ僕も楽しくない仕事をしよう」と頑張らなくちゃいけないんですよ。

面接で値踏みするような視線を向けられ、作りたくもない表情を作り、本心ではない「働きたい」という噓をつかなければならない。

 

嫌で、嫌で、嫌でしょうがない。

 

こんな嫌なことをしなければならないこの世の中は生きていなければいけないものなのですか?

悲しむ人のことを考えなければならないほど僕の気持ちは無価値ですか?

死ぬのなんて怖いんですよ。でも、働きたくもないんですよ。

 

就活で何社も落とされましたよ。

僕自身の能力や学歴という努力の道すら無価値だと投げ捨てられた。

偉い人やすごい人はどっかで認められて、僕の気持ちなんて僕じゃないんだからわかるはずもなく、無責任に意見や感想を飛ばしてくる。

 

ほんとにしがみつくだけの価値ある世の中なの?

 

疲れたよ、もう。

始発にて


今現在、兄からお下がりでもらったばっかりのPS3でゲームデータの再インストール中なのですが、残り時間1140分をマークした時点で信じるということに対してこんなにも疎くなっている自身を見つめることができました。




今までの出会いに感謝っ!






とかまぁ、そんな雑な考えとかは3時間後には想起した理由を忘れているし、2日後には言葉に意図したものも滅却されているだろうと推理しているわけですが……




いやー、この度私も無事大学生活を終え、野に解き放たれることになりました




そんな僕も伊達に成人になったわけではなく、高校時代の友達と飲みに行ったらなんかして、お茶目にニートな現状を紹介したりしなかったり……




でもって、ようやく気付きました



他の人より気づけない私が気付いたということは、世の大多数の方々が気付いているであろうそれにようやっと対峙したわけです



私は自由です




もうびっくりするくらいフリーダム



いや、リバティかもしれませんな




働くということに過剰な拒絶反応を見せている成果なのでしょうが、とてつもなく不安感を抱き、想像力を欠如し、のうのうと食っては寝てます。




飲食店で働くなんて……無理だよぉー




脈絡のなさが売りなこのブログと私の頭ん中は今の自堕落極まりない実情を嘆いてはいるみたいです




すごく中途半端




首都に関わりを持たなくなった男




大人になるってどういうこと?

ってのは一週間考えたってわからないです


しかし、社会人になるってことは

施すことと作る事なのではないかと思い至りやした



作るのは苦手なんですよね


クリアする事は出来ても、解を得られても、新案や新作なんて私にゃあ勿体無い話でございます




対価を得るにはまず作らねば


間口の狭い社会の中で、頑張って改札をくぐって、せめて蓄えてきた荷物を持って、電車に乗らなきゃ次の駅には進めないようなので




ガタンゴトンと


リンドンと




降り立つまでは乗らなきゃな




関東の僻地、隅っこから



目指せ、しゅと



こう、なんていったものか、自由に書き出せる場所があるのは誰に見せるわけでもないけれど発散には都合がいいと感じる。




昔を振り返っています。




このブログ自体は彼女と親友に明かしてるからロクなことは書かないと自重気味に再確認しながらも、筆をとります。




特に読む価値なんざありゃしないものだけれども




過去を振り返っています。

主に恋愛的な意味での。




今思うと「こういうところ努力していたんじゃないかな?」とか見えてくるもので


死んだわけでもないのに感謝やお礼の言葉を伝えておけばよかったと思いました。



それが過信であるならばなんと恥ずかしいことかという事例ですが。




お互いに向き合っていなかったんだとは思います。




例えば、性善説っていうものがありまして。

残念ながら確証はないのですが、僕の認識として、この言葉は「世の中の人は全て善性を持ち、それを優先させて生きている」というふうに僕は認識しています。



つまり、そんなこたぁねぇ



最近ニュースで見ましたが、書類に関しては性善説を信じていたからこそ、見直す必要ができてしまった事例とかも出ましたね。



でもそもそも、車の運転とかで免許の有無に関わらずよく聞く「かもしれない運転」という言葉。



これの対義語は「だろう運転」だそうです。

今はもうぐぐってください。雑に始めたブログで解説するとかストレッサーになりうることはしません。



この「だろう運転」ですが、加害者側と被害者側が同時に行わなければ成立しません。


片側が「かもしれない運転」だった場合、事故なんて到底起きないからです。



「だろう運転」は性善説を信じる人の行動

「かもしれない運転」は性悪説を唱える行動




やはり、世の中を全て悪いと信じるのが一番実被害がないと政府が言っている。




このことから、彼女たちが努力してくれていたことも、下手をすれば僕に関係のないことだったのかもしれません。



そう考えれば実被害は少なくなるのでしょう。



しかし、卑屈で矮小な僕にも芝居をやっていた経験上承認欲求はあります。



そういった行動ですら僕のためであってほしいと考えてしまいます。



人に没することのできない僕なので、僕に没してほしいなどと大層なことは言えません。



もし、過去に戻ったり、再開することがあるならば、関係を元に戻したいとは思いませんが(というか資格がありませんが)



感謝の意を伝え、認識しなかった謝罪くらいはせめて行いたいと考えます。



まぁ正直、自業自得ではありますが怖いので会いたくはないのですが……




以上

龍之介の信心


間もなく社会という名の天井のないエコールームに放り投げられるタイミングです。



怖いけれど、確定してないことには不安を抱くという矛盾がヤマアラシ



だからこそ、昔を振り返って現実逃避に繰り出してみています。




基本的に僕らは熱く、社会的なテーマの上で芝居をすることが多かった。


というか、演出家がそういうのが好みのやつであり、さらに、僕が友達少ないこともあり彼とばっかり芝居してたことが原因なんですが……



それを振り返ってみて思うことがありました。



僕らは世に溢れているような当たり前の人を描いています。


そうしないと、共感も得られなければノンフィクションたりえない。

それは、演劇じゃない方が向いてるのではないかとすら僕は考えてしまいます。


そんな人たちを描いたものを観て「熱い」と評価されるということは、世の中にいる人は皆「熱い」を内包しているのだと思います。



それが表に出ないのは、その「熱さ」は社会からは受け入れ難いからです。


出してしまったら最期、我々の描いた世界のようにほとんどの人が幸せになれず、誰かが怪我して、きっとニュースで報道されます。


「あるある」として。



僕自身の話ですが、新しいことを始めるのは怖いです。物事を継続することが苦手でもあれば、保守的で逮捕されたりすることを恐れています。


そんな僕にでも理不尽に思うことや許せないことから、後ろめたいことなんて沢山あります。人様には言えません。


そんな僕を含めた我々捕まえて「熱い」というならば、きっと、あなたの周りの人間を見てもあなたは同じ評価を下すことが可能だと思います。


人はそれぞれの主観で辛い物事に向き合ってます。

それは、別の人からしたら他愛もない問題かもしれませんが、当人としては頭を抱えて必死に戦わなければならない問題なんです。


その様はきっと「熱い」んだと思います。



何かを諦めて、達観して、引きこもった人がいたとしたら

自身の持っていた理想と現実とのギャップに苦しんでいるんだと思います。

理想的であって欲しかったが、その実は辛い現実で、地獄とわかっているから踏み出せない。



そんな葛藤だって、きっと、「熱い」




世の中は「熱い」話で出来ている。